こんにちは、梶谷です。
今日は本の紹介です。
以前、私のお知り合いの作家の多胡吉郎さんをこのブログでご紹介しました。
http://ningenshakai.net/2008/07/post-23.html
その記事中でも触れましたが、多胡さんとのお付き合いは、多胡さんが作品の執筆にあたり、ちょうど内容が私の研究内容と重なっていたために、メールでお問い合わせをしてこられたのがきっかけでした。もうかれこれ2年も前になるのでしょうか?
それで、昨年2008年10月に、ついにその作品が
完成し、出版されました。
多胡吉郎著『わたしの歌を、あなたに 柳兼子、絶唱の朝鮮』、河出書房新社
この作品の主人公、柳兼子(やなぎ・かねこ)は、大正期から昭和にかけて活躍した声楽家(アルト)です。柳兼子は当時日本の植民地下にあった朝鮮半島に渡り、音楽会を十数回にわたって開催した人物です。
兼子の夫である柳宗悦(やなぎ・むねよし)は、朝鮮の人々の境遇に深く同情し、それと同時に彼らが生み出した芸術に美的価値を見出し、その保存に尽力しました。宗悦は朝鮮芸術を保護するために、現在のソウルの地に朝鮮民族美術館の設立を計画するのですが、その資金集めのために妻兼子は日本国内や朝鮮半島において何度も音楽会を開催し、収益金を美術館設立資金に充てたのでした。そして、1924(大正13)年4月、朝鮮民族美術館は開館するに至ります。
柳宗悦が見出し、保護した朝鮮半島の美術品は、紆余曲折を経て、今はその多くが国立韓国中央博物館に無事に収蔵されています。
兼子は夫宗悦の活動を支える存在としてみなされる傾向が強いのですが、多胡さんはあえて兼子を主人公とし、兼子の視点から彼/彼女らの活動を描きます。しかも、多胡さんは音楽会のプログラムから兼子の思いを汲み取るという、クラシック音楽の大ファンである多胡さんらしい手法で、読み解きます。柳宗悦について知っている人からすると、歴史がまた異なって見えてくることでしょう。
日韓近代史は、支配する側とされる側に二分される不幸な時代で、殺伐としたイメージが付きまといます。日韓の交流は今からは想像もできないほど困難なものだったでしょう。それでも人と人は交流していた。市民レベルの豊かな交流は確かに存在していた。柳宗悦と兼子の活動は、そういう事実を教えてくれます。人の心や文化の交流とは思ったより複雑なもので、今なおこの時代から学ぶべきことは多々あるように思うのです。
日韓国交正常化(1965年)から間もない1968年、兼子は韓国の人々から請われて韓国で音楽会を開きます。植民地支配ののち国交断絶状態が続き、半世紀近くの年月を経ながらも、韓国の人々からなお音楽会を求められる日本人・柳兼子とは、どのような人物なのでしょうか?
ぜひ、ご一読ください。
今日は本の紹介です。
以前、私のお知り合いの作家の多胡吉郎さんをこのブログでご紹介しました。
http://ningenshakai.net/2008/07/post-23.html
その記事中でも触れましたが、多胡さんとのお付き合いは、多胡さんが作品の執筆にあたり、ちょうど内容が私の研究内容と重なっていたために、メールでお問い合わせをしてこられたのがきっかけでした。もうかれこれ2年も前になるのでしょうか?
それで、昨年2008年10月に、ついにその作品が
多胡吉郎著『わたしの歌を、あなたに 柳兼子、絶唱の朝鮮』、河出書房新社
この作品の主人公、柳兼子(やなぎ・かねこ)は、大正期から昭和にかけて活躍した声楽家(アルト)です。柳兼子は当時日本の植民地下にあった朝鮮半島に渡り、音楽会を十数回にわたって開催した人物です。
兼子の夫である柳宗悦(やなぎ・むねよし)は、朝鮮の人々の境遇に深く同情し、それと同時に彼らが生み出した芸術に美的価値を見出し、その保存に尽力しました。宗悦は朝鮮芸術を保護するために、現在のソウルの地に朝鮮民族美術館の設立を計画するのですが、その資金集めのために妻兼子は日本国内や朝鮮半島において何度も音楽会を開催し、収益金を美術館設立資金に充てたのでした。そして、1924(大正13)年4月、朝鮮民族美術館は開館するに至ります。
柳宗悦が見出し、保護した朝鮮半島の美術品は、紆余曲折を経て、今はその多くが国立韓国中央博物館に無事に収蔵されています。
兼子は夫宗悦の活動を支える存在としてみなされる傾向が強いのですが、多胡さんはあえて兼子を主人公とし、兼子の視点から彼/彼女らの活動を描きます。しかも、多胡さんは音楽会のプログラムから兼子の思いを汲み取るという、クラシック音楽の大ファンである多胡さんらしい手法で、読み解きます。柳宗悦について知っている人からすると、歴史がまた異なって見えてくることでしょう。
日韓近代史は、支配する側とされる側に二分される不幸な時代で、殺伐としたイメージが付きまといます。日韓の交流は今からは想像もできないほど困難なものだったでしょう。それでも人と人は交流していた。市民レベルの豊かな交流は確かに存在していた。柳宗悦と兼子の活動は、そういう事実を教えてくれます。人の心や文化の交流とは思ったより複雑なもので、今なおこの時代から学ぶべきことは多々あるように思うのです。
日韓国交正常化(1965年)から間もない1968年、兼子は韓国の人々から請われて韓国で音楽会を開きます。植民地支配ののち国交断絶状態が続き、半世紀近くの年月を経ながらも、韓国の人々からなお音楽会を求められる日本人・柳兼子とは、どのような人物なのでしょうか?
ぜひ、ご一読ください。

