左の写真は、今週のディベート Ⅰが始まろうとするときに撮影したものです。学生が机の上に新聞を出しています。これは、先週の授業の終わりに、学生一人に1部ずつ、つまり、1日分の新聞をまるごと配ったものです。(この新聞は佐々木家の自宅にたまっていた古新聞です。)翌週の授業でこの新聞を使う課題を出すので、ひととおり読んでくるように指示しました。早々と教室に入ってきた人たちが、席に着くとカバンから新聞を取り出して読み始めました。教室にいる学生が、新聞を読んでいる。これはなかなかいい光景です。
課題は、「自分が与えられた新聞から、興味のある記事をひとつ選び、それに対して意見を書く」というものでした。提出用のワークシートは、新聞記事の中から興味を感じる部分を引用するように枠を設けました。そしてその枠の下に、引用した部分に対して自分の考えを展開する本文の枠を広くとりました。そして、最下段には、この新聞記事を読んで、さらに調べてみたくなったことを書く欄を作っておきました。
この課題を通して培いたいのは、社会事象に目を向ける意識、あることがらについて自分なりに考えをもつこと、単に「すごい」とか「たいへんな事件だ」といった表面的な感想ではなく、何かを掘り下げて考える力などです。ディベートを学ぶ意義はたくさんありますが、討論のテーマについていろいろな背景を知るということ自体に十分価値の大きさがあると思います。ディベートの論題になったおかげで、いろいろと調べる機会をあたえられたものの例をあげると、サマータイム制度、環境税(炭素税)、夫婦別姓、遺伝子組み換え食品、死刑制度、電磁波など多岐にわたります。
「教養を身につけろ」と言われて、半ば強制的に本を読まされても、その人の意識は高まりません。ディベートでは、より強力な議論を組み立てて、それをもとに他者と討論をするという明確なゴールがあるので、より価値の高い情報を集めようとする意欲がわいてきます。
ところで、先日読んだ本(外山滋比古「読みの整理学」)に「新聞をすみからすみまで読むのは、とても読解力を要する」という記述がありました。新聞記事には、自分にとって既知のことより未知のことの方が多い。自分で経験したことがない世界のことが書いてある。それを文字だけで理解するのは、容易ではないという主旨でした。だから、なかなか理解ができない記事があっても、それは不思議ではないというのです。たしかにそうだと思いました。たとえ毎日のように記事になることがらでも、読んでいてどうもよくわからない内容があります。ところが、自分がディベートのためのリサーチで調べたことがある領域の記事だと、多少専門的なことが書かれていても読み進めることができます。こう考えると、ディベートというのは、物事を知り、自分の考えを深めたり広めたりすることが可能になる、よくできたシステムだと思います。


